ヨハネ15章
「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です」と、イエスは弟子達に語りました。「枝であるあなたがたは、木であるわたしから離れては生きていけないのだから、しっかりわたしと一体となっていなさい。そしてわたしとつながっている為には、いつもわたしのことばにとどまり、わたしの父である神の戒めを守り、わたしがあなた方を愛したように互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ15:1−12)
人が神のためにしなければならないことよりも、すでに神が人のためにしてくださったことを強調して書かれている書、それが聖書です。その聖書に日々聞き従っていれば、つまりイエス様にとどまっていれば、農夫である神様は、”高ぶり”などを刈り込んでもっと豊かに実をつけられるようにメインテナンスしてくださいます。だから私達(枝)に必要なことは、イエス様(ぶどうの木)にとどまるという事なのですが、ここに犯しやすい間違いがあります。
自分で良い枝として良い実(良い結果)をつけようとがんばってしまう・・・イエス様はこう言われました。「私にとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(ヨハネ15:4)
留まっているのだから、じっと動かないでいよう・・・この福音書の原語であるギリシャ語では、この「とどまる」という語には「誰かの家に滞在する」という意味があります。滞在するということはじっと動かないでいることではありません。その家の方と一緒に食事をしたり、何かを一緒にしたりします。特に一緒に食事をして交わりの時を持てば持つほど相手に心を開く事ができます。だから私達はイエス様と一緒の時間を過ごす必要があるのです。キリストの体は教会ですから、教会のファミリーとの交わりは大切なとどまることのひとつです。礼拝だけでは、離れていってしまう危険があるのです。みことばにとどまる。みことばを学びあう。みことばを分かち合う。このように、とどまるということには、アクションが伴います。
わたしがこれらのことをあなた方に話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
(ヨハネ15:11)
インターナショナル・ジャパニーズ・キリスト教会 冬木友博牧師
International Japanese Christian Church 2007年1月28日聖日礼拝 Message