「信仰によって受ける祝福」ローマ515

「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、今私たちの立っているこの恵みに信仰によって導きいれられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、艱難さえも喜んでいます。それは、艱難が忍耐を生み出し、忍耐が錬られた品性を生み出し、錬られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わる事がありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ515

自分は自分の人生をコントロールしている、そう思っているうちは、もっとこれをやろう、努力すればきっと結果が出る、もっと儲けよう、と自分をけしかけて頑張ろうとします。ところが、何でこんな事が自分に起こるんだろう?どうして又?なぜ今?何であの人でなく私に?いつまで続くんだろう?そういう苦しい人生の岐路に立つとき、人は信仰を持っていなかったとしても「神様、もしいるんだったら私を助けてください!」と、すがりつく思いで神を求めます。信仰とは一体何でしょう?

「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1

信仰とは、神のことば(Logos=God’s Word)を信頼する事、信じきる事です。神はあなたが神を信頼する事を願っておられます。神のことばを信頼し、信じきる信仰がなければ神の祝福を受ける事はできません。旧約聖書のイスラエルはそのことを如実に私たちに教えています。「私がイスラエルの主である。私に信頼せよ。」といわれる神を信頼しきれず、エジプトに頼ろう、いや、アッシリアに頼ろう、そうやってイスラエルは神の祝福から自ら離れて行きました。

「神様がいると信じたい、でも、私は今すぐ助けてほしいのに、祈っても聞かれない。ほんとに神様は私を愛してくれてるんだろうか。」と思ったことはありませんか?弟子たちが「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか」と聞いた時、「あなたがたの信仰が薄いからです。」とイエス様が言われたことがありました。しかし、信仰は薄いか濃いか、弱いか強いかではありません。信仰は、確信があるか、ないか、ふたつにひとつです。疑いがあるということは信じてないのとおなじ事です。ですから、イエス様はすぐ後にこう言われました。「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に「ここからあそこに移れ」といえば、移るのです。どんな事でも、あなたがたに出来ない事はありません。」(マタイ1720

あなたは山を動かせると信じますか?私は実際にこのみことばを信じて祈った結果、その通りになった人のことを知っています。その人は、祈祷院を建てたかったのですが、その場所に山があったのです。「この山よ、海に移れ」と信じて祈ったら、1年後、埋め立てのために本当に山が海に移ったのです。

「あなたはそれでもわたしに信頼するか?」と主は問われます。信仰があるのか、ないのか?神のことばはすべて成就すると信じることが信仰です。「はい、主に降参します。私にはできません。あなたしか頼るお方がいません。あなたにできないことはありません。」と告白して、祝福を受けようではありませんか。

〈信仰によって受ける五つの祝福〉

1.         神の義と平和

 神の義とは、罪の許しと神の子の特権です。本来罪人である自分が神の目に義とされる事などあり得ない事です。神と和解させていただいて、神の子と認められるなど、とんでもない事です。それが、唯一イエス様の十字架の血潮ゆえ、可能となりました。私たちは、ただ信じる信仰によって義とされ神の子としての特権をいただくことが出来るのです。

2.         神の恵みによる栄光と喜び

恵みとは、本来与えられる資格のないものに一方的に与えられる神の愛です。インマヌエル:主が共におられる。この恵みは、独り占めするべきものではなく、多くの人と共に分かち合うものです。「すべての事はあなたがたのためであり、それは恵みが益々多くの人々に及んで感謝が満ち溢れ、神の栄光が現れるようになるためです。」(2コリント4:15)

              たとえ苦しみや悲しみにあっても、神の恵み、主が共におられるという事実に生きる人は、すべての事が益に変えられ感謝に満ち溢れるのです。

3.         神の艱難と忍耐

息子とおなじモアナルア・ハイスクールを去年卒業した青年が先々週サイクリング中に車にはねられ死亡しました。あまりに突然の事に息子もショックを受けました。いつまでも生きてると思っちゃいけない、いのちは自分でコントロールできない、ということを痛いほど思い知らされます。友を、肉親を、失う事はつらく悲しい事です。イエス様を信じたら苦しみに会いませんなんて約束はありません。苦しみ、悲しみ、痛みの中にあっても、主が共におられる、これが神のことば、聖書の約束です。これでもか、これでもかという艱難にあった人が、その苦しみが祝福に変わったというたくさんの証がこの約束の成就を示しています。

「苦しみにあったことは私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)

4.         神の錬られた品性と希望

あの人は次から次から多くの問題があるのにどうしてあんなに気丈でいられるんだろうか?そんな風に思ったことはありませんか?仕事が奪われる、健康が奪われる、愛する人が奪われる、それでも、見える困難は見えない神の前に私たちを押し出します。自分の力ではだめだ、主よ助けてくださいと、真剣に砕かれた心で祈る事ができます。問題がなかったら、信仰を働かせる必要なんかないでしょう。問題があるからこそ、信仰に立つことができるのです。私たちに必要なのは、立派な信仰ではない。信仰があるか、ないかです。

5.         神の愛が注がれる

だから、苦しみに会うと言う事は、神に愛されている証拠です。問題があって苦しい、もう逃げ出したい、そんな時、よくこう言われたものです。「冬木兄弟、主に愛されてますね。」そんな事、言われたくもない、気休めにもならない。でも、これは真理です。今は素直に僕が言っている事を聞けない人がいるかもしれませんが、でも本当です。苦しみや悲しみを通ってこそ神の愛の注ぎを本当に理解する事ができるのです。

 

「この希望は失望に終わる事がありません。」(ローマ5:5)

主に信頼するものは祝福される。これは真理です。大切な質問をします。主とは誰ですか?

主とは、イエス・キリストです。イエス様を信頼するものは必ず祝されます。

インターナショナル・ジャパニーズ・クリスチャン・チャーチ 冬木友博牧師

2010年12月26日礼拝メッセージ