全てが新しくなりました。起きよ、光を放て。

(IIコリント517、イザヤ60:1〜2)

 

 人は何のために生きているか?それは、愛する為です。じゃ、愛するってどういうことですか?それは、つながっているという事です。互いに愛し合うというのは、一緒にいて関わりあうという事です。このIJCCが、子供たちから年配に至るまで互いに関わりあって、年齢も言葉も超えて、ファミリーとして神様を礼拝する、そんな教会としてより成長していけるように、日々心の耳を研ぎ澄ませて神様に聞き、益々神様に近い関係であるようにと願います。

 さて、本来神が人を創造された時、人は神と一緒にいてはじめて人らしい素晴らしさを発揮できるものとして創られました。そもそも人は愛するという力を自分でジェネレイトすることは出来ないんです。ここにマイクロフォンがありますが、これはケーブルとつながっていて初めて機能するのであって、ケーブルから離れてしまったら、マイクとしての役割を果たす事は出来ません。人は罪のために神から離れてしまいました。神とつながっていてはじめて人は人らしく生きられるのに、それが出来ない。そこで神の代わりに宗教ができました。何とかして人の力で神に近づこうと求めますが、でも人の教えでは無理なんです。ところが、創造者に背を向けたまま生きる人間をそのまんまに放って置けない神は、なんと人の形を取って地上に来てくださり、ご自身と人間との関係を修復してくださいました。それがキリストの十字架です。

 この地上で、人は自分達の正しさをもってぶつかり合います。イエス・キリストのみが、その衝突の関係を愛し合う関係に変える事が出来るかたです。真珠湾攻撃を指揮した淵田美津夫という人物がいます。戦後彼は、何の為に自分は戦争をしたのだろう、多くの部下を死なせてしまったのだろうと、罪責感にさいなまれますが、ある時、日本軍の捕虜だった元アメリカ兵が、今はキリストにあって日本人を愛するようになり聖書の愛を説いているのに出会います。やがて聖書を読み始めた淵田氏は、十字架上のイエスのことば「父よ、彼らをお許しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」に出会い、キリストを信じ、元アメリカ兵との和解を得ます。さらに彼が後に牧師となった事は、真珠湾の記念館にあるパネルの最後にも記されています。

 人間にとって最も幸いなのは、愛し愛されていることです。たとえ貧しくとも、病んでいても、肉体が衰えようとも、神様に愛され、神様を愛し、将来の天国への希望と平安があるのは何よりも幸いです。私たちはこのイエス様とつながる時、神との関係が回復し、罪許され、傷から開放され、本来の人としての自分を回復するのです。これは、けっして特定の人におこる事ではありません。私の娘婿は、とても怒りっぽい性質があり、自分ではどうしても変わる事が出来ないでいました。ところが、そんな彼が、ある時から彼自身も驚くほど変わったんです。それは、こんな自分がイエス様につながる事が出来てイエス様に許してもらったのだから、今までどうしても許す事が出来なかった父だけど、僕も父を許す、と決めた時からでした。キリストの許しというのは現実の事です。だからこそ、その人自身の中でこのような変化が起こるのです。

 イエスは新しい命をもって復活したニュー・クリエイションです。イエス様を信じるということは、私たちが想定している事よりずっとはるかに良い事が起こるということです。まず第一に、あなたは過去に集中しなくなります。キリスト者は未来を創られる方と共に歩む者に変えられたからです。第二に、あなた自身、新しくなりました。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。」(IIコリント517)「キリストにある」とは、イエス様と一緒に生きる、いつも一緒という事です。ちょうど、夫婦の関係のように。夫婦というのは、ある日突然夫婦になるわけじゃありませんね。まず出会いがあって、これかな〜、これは本物かな〜と確かめる期間があります。そして、いよいよプロポーズ。はっきり自分の意思を口で告白するのは重要な事です。そして、正式な夫婦である事を公に明らかにする意味で結婚式、バプテスマがあります。神様のほうでは、もうすでに私達にプロポーズしておられます。「だれでもわたしを信じるものは救われます。」条件は?イエス様を信じる、それだけです。

 最後に、キリストとつながった人への神の願いを、イザヤ書6012節から聞くことにします。「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。闇が地を覆い、暗闇が諸国の民を覆っている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。」

「起きよ」とは、閉じこもっていないで、引きこもっていないで立ち上がりなさい、ということです。「光を放て」の光とはどこにあるのでしょう?人には光はないけれど、キリスト者には光り輝くキリストが共にいてくださる、その主の光を放ちなさいということです。自分自身のコンデイションとか状況を見て言い訳するのではなく、自分の思いを離れ、そこから新しく変わりましょう。私たちの内側にはイエス様がおられます。わたしたちの行くところ、主の臨在が豊かに現されると信じます。

 

「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」

と万軍の主は仰せられる(ゼカリヤ46

 

札幌キリスト福音館 三橋恵理哉 牧師

International Japanese Christian Church 2010418日聖日礼拝 Message